Perdix
1994年度の鳥人間コンテスト本番において、操縦系統の破損によりなす術もなく琵琶湖の湖面へと突っ込んでしまった、Little Wing '94。その後、代替わりが行われ僕の在籍する学年が中心に立って活動する体制へと世代交代しました。僕個人は引き続きパイロットとして、また駆動系の設計および製作担当者としてプロジェクトに参加しました。
前年度の悔しさが頭から離れることなど1日たりとなく、とにかくどうすれば「飛ぶ飛行機」を作ることができるかを考える毎日が続きました。そうこうしているうちに、機体名称が「Perdix」に決まりました。発案者はプロペラパートリーダーのMak。その名前の由来の説明は別のページに譲るとして、とにかくその名に恥じない素晴しい機体を創ろうと日々努力しました。
そして迎えた1995年度の鳥人間コンテスト当日。前日の抽選で人力プロペラ機部門出場全20機中5番目というなかなか良いクジを引き当ててはいましたが、それ以上に気象条件は鳥コンでは珍しいほどの好条件でした。そんな中、Perdixは無事プラットフォームより離陸。飛行コースはかなり蛇行してしまったものの、飛行距離910.92m、サークル史上過去最高飛行距離を記録しました。飛行時間は2分強でした。順位的には(3位の飛行距離とはかなり離れているものの)人力プロペラ機部門出場全20チーム中4位と健闘、思いがけず表彰台で奨励賞をいただくことができました。
Perdixは自分にとって最高の飛行機でした。このPerdixは少なくとも、サークルとしての飛行距離更新という当初の目標を達成したという意味においては大成功を収めました。この成功は、日本大学航空研究会の方々、Team Aeroscepsy(YAMAHA)の方々をはじめとする多くの(チーム外の)方々の協力なしには達成しえませんでした。そしてもちろん、それはまたチーム内の優れた設計者と製作者達の努力の賜であったと思います。