人生後半の戦略書
著
『人生後半の戦略書 ハーバード大教授が教える人生とキャリアを再構築する方法』を読みました。私は筆者が読者に想定しているような成功者ではないけれども、それでも良い本だったなと思います。主には、過去数年のあいだに仕事方面で私がくだした判断、たとえば専門職大学院に通ったり、取締役を退任したのは、割と正解だったんだなって、自信が持てた意味において。
知能は流動性知能だけではありません。「結晶性知能」も存在します。結晶性知能とは、過去に学んだ知識の蓄えを活用する能力です。
本書が一貫して主張しているテーマが、上記のくだりに凝縮されています。流動性知能から結晶性知能へ軸足をシフトさせる必要性を、繰り返し説いているのが本書です。なんとなく形式知から暗黙知へとか、フローからストックへとか、そういう別の言い回しでも表現できそうだなと思いました。
私がこれまで見てきた中で、特にたちが悪く毒性の高い依存症は、仕事依存症です。
20代から40代前半にかけてを振り返ると、やっぱり自分も仕事依存症だったように思います。常に上には上がいるもので、他人からは私程度の頑張りを仕事依存症とは呼ばないと評されるかもしれないけれど、少なくとも主観的には仕事依存症、そして成功依存症だったなと。それはもちろん、良くも悪くもです。
社会的比較、失敗に対する恐怖心、そして完璧主義は、ダンテの描いたプライドに満ちた氷の海のようなものです。「成功しなければ人にどう思われるか」それどころか「自分にどう思われるか」という思考にとらわれ、凍って身動きできなくなります。
どこまで頑張っても自分で自分を許せない感覚、非常に強かったですね......給与に見合った貢献ができているのかとか、役職にふさわしい働き方ができているのかとか、常に気を揉んでいたし、それらの答えは大抵「ノー」であって、際限のないプレッシャーを自分で自分に課していたような気が。
私たちは、願望を満たして満足する方法は多少なりとも知っているのですが、その満足感を維持することがとてつもなく下手なのです。
おっしゃる通り。今年の2月に龍安寺へ吾唯足知の蹲踞を見に行ったばかりだけど、足るを知ることはできても、なかなかその認知を継続させることができず、容易く忘れてしまう。なんでこんなに、下手くそなんでしょうね。生存戦略的に、常に渇望するよう遺伝子レベルで刷り込まれているのでしょうか。
仕事が生きがいで、働くことが生きることとイコールなら、または、そこまででなくても、仕事がアイデンティティーの源になっているなら、自分が確かに生きていることを証明するには、仕事の能力や業績を示さなくてはいけません。それが落ち込むということは、死の途上にあることと同じです。
これもよく分かる話。私はどちらかというと死に対する忌避感が強いほうじゃないかと思っていて......仕事が人生の99%であり、仕事がアイデンティティーとすら思い込んでいたなら、やっぱり全力で死を回避しようとする=持てる時間は極力、仕事に費やそうとするのが自然な発想に思えます。結果として周囲を、自分自身をないがしろにし、ボロボロに壊れていく笑。
『いつ死んでもいいように生きなさい』と人々は言うが、私ならこう言う。『誰が死んでも後悔しないように生きなさい』
上記は、レフ・トルストイの発言を引用したくだりなのだけど、読んだ瞬間、頭をぶん殴られるような感覚を覚えました。確かに自分は「いつ死んでもいいように生き」たいと願っているけれど、そのいっぽうで「誰が死んでも後悔しないように生き」てはいない。なんて自己中心的な生き方をしてきたものかと、反省しました。
自由になるには飛ばなくてはいけないと分かっていても、飛ぶのは怖い。それでも飛べば、つかの間の過渡期を経て、あなたは生まれ変わるのです。
1995年の夏、鳥人間コンテストのプラットフォーム上で、ペダルを踏み込んだ瞬間を今でも昨日のことのように覚えています。あのとき以上の緊張と興奮は、その後の人生で味わったことがないけれど、まったく別種のペダルをすでに漕ぎ始めている実感があります。おそらくは、結晶性知能を活用できるようになるための、過渡期に向かって。