自分であり続けるために
著
本日、覚え書きをする田坂広志先生の著書は『自分であり続けるために 流されず、いまを生き切る50のメッセージ』。
人は、長き歳月を歩み、人生の苦難を乗り越えていくほどに、精神は若く、瑞々しくなっていく。
田坂先生はよく逆もまた真なりという感じで逆説を説かれるけれど、これもその一つなのでしょう。50を過ぎて読むフレーズとしては、たいへん励まされる逆説ですね。もっとも、まったく別の意味・文脈として、老いれば理解力や判断力が衰え子供みたくなる、みたいなことは昔から言われてますけど笑。
アートの本質とは、「制約」の中での自己表現である。そして、もしそれが、アートの本質であるならば、我々の「人生」もまた、一つのアートである。
私はまったくアートを志してこなかったけれど、そう言われると人は皆、アーティストだなって思えます。生まれ持った制約は、多種多様で千差万別ですが、その前提において自己をどう表現するか。それは時間を何にどう使うかという命題にも繋がっているわけで......今この瞬間を生き切ろうって話にもなるかな。
我々の人生の、本当の「分かれ道」は、どこにあるか。それは、どのような出来事が起こったかに、あるのではない。起こってしまった出来事を、どう解釈するか。その解釈にこそ、あるのです。
解釈力のお話は、数ある田坂先生のご講演のなかでも、かなり私のお気に入りというか、心に焼きついています。まだまだ、解釈力を鍛えている最中ではありますけど、ひと昔前から比べたらだいぶ生きやすくなりました。「ものは言いよう」なんで、子供の頃から知っていたはずなのに、ぜんぜん実践できてなかったなとも。
我々は、美しい風景を見るとき、しばしば、夢中になって、それを写真やビデオに残そうとします。しかし、そうして一生懸命にその景色を記録したあと、ふと、気がつきます。心の底から、味わい、心の深くに、記憶する。そのことを忘れてしまったことに、気がつくのです。
上記は、山歩きの最中に、よく思うことです。また最近、実家の紙焼きの写真を整理したり、これからVHSに録ったままのビデオ(主には人力飛行機絡み)を整理しないといけなかったりして、いろいろ思うことがあります。コストをかけてデジタル化したところで、一体それを誰がいつ、どれだけ目にするのかと。すでに心に、記憶できてるんじゃないか?とか。
我々は、いつも、相手の共感を得たいという気持ちに支配され、相手に共感するこころを忘れてしまうのです。
いや本当にそうですね。最近、親と交わした会話でもそう。それだけ自我が肥大化しやすいってことなのかもしれないし、元を辿ればワガママに生きてきてしまったことの裏返しなのかも。そこのところのバランスには、きっと死ぬまで悩み続けることになるのでしょう。
明日は視力がなくなるかもしれないという気持ちで、あなた方の目を、大切にお使いください。
上記は、ヘレン・ケラーの言葉だそう。今日が人生最後の日、という仮定にも通じる話。両目ともに白内障ながら、視力自体はなんとかこの数年、維持できているのがありがたいです。大切に使おう。