限りある時間の使い方
著
たぶん読み終えたのは先月だったか、の『限りある時間の使い方』について覚え書き。
時間をうまく使うことが人の最重要課題になるはずだ。人生とは時間の使い方そのものだといってもいい。
御意。しかし自分がそういう理解にたどり着いたのは、だいぶ歳とってからのことだったはず。受験戦争に明け暮れた小5〜浪人時代の自分が同じ理解にたどりついていたら、どういう選択をしただろう。高学歴を得るのに惜しみなく時間を費やすことを肯定できた自信はない。
現代社会はやるべきことを無限に提供してくれるので、「やりたい」と「できる」のあいだに、けっして埋められない溝が生じるのだ。
その埋められない溝のおかげで社会や経済が発展してきた側面もあるだろうから、決して溝を否定したり嫌悪する気にはなれません。だけれど、それが一種、呪縛のように機能してきたのは確かだろうと思います。片っ端から「やりたい」を「できる」に転化することを、美徳とするかの風潮もあるような。
限りある人生を生きるということは——それがどんなに最高の人生であっても——絶え間なく可能性に別れを告げる過程なのだ。
残酷に聞こえるけれど紛れも無い事実であり、そうやって人は老いていくものだと腹落ちしたのは、いつだったかな。でもねぇ、未練がましく可能性にすがりつき続けるのもまた老い方の一種であり、どちらかと言えばそういう老い方のほうが自分には向いているのではないかと、ふと感じます。
多数の選択肢を捨てるからこそ、選びとったものに価値が生まれる。
......ということを全肯定できれば、別れを告げた可能性に未練を感じることも無いのにね。きっとそれは、積極的に選びとったとは思えない、消極的に「選ばされた」選択肢にしか思えないから、なのだろうね。そしてそれは、自らの非力さや無能さそのものでもあったりする。著者の主張は結局、そこをを受け入れよということなのだよなぁ。
日々のあらゆる時間を努力で満たしていれば、いつか幸せな未来がやってくる。そう信じる気持ちは宗教とたいして変わらない。
正し過ぎてイライラしますが笑、まぁそうですよね。そして決して宗教=悪でもない(自分は無宗教のつもりですが)。だから反論させてほしい、いつか幸せな未来がやってくると信じずして、どうして努力できよう(日々の満たし具合はさておき)。時と場合によっては、その種の宗教が必要だったりもするでしょう。
特定の結果を望み、そうならないことを恐れるよりも、「次に何が起こるだろう」とわくわくしながら生きてみよう。
それが簡単に実践できるなら誰も苦労しないわ。なんて毒づいても始まらないので、控えめに頑張ります。