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もしも宇宙に行くのなら

大学院での学びに関連して、『もしも宇宙に行くのなら——人間の未来のための思考実験』を読了。内容的には以前読んだ『宇宙倫理学入門』そして『宇宙倫理学』に近しいものの、これら2冊が人類の宇宙進出に対して懐疑的、いやどちらかというと否定的に感じられたのに対して、本書は「あとがき」で私は、宇宙への進出が、地球での人類の存続の役にも立つと思う(p.162)と書かれている通り、前向きなスタンスを取っているのが大きな違いかな。

切羽詰まってから、やっぱり地球に留まっていてはだめでした、宇宙に出ないといけません、と言っても手遅れだ。

p.8より。自分もまったく同感であり、だからこそ今できる宇宙開発を進めるべき立場を取るけれど、しかしどの程度の危機的状況に陥れば全人類的に「切羽詰まった」と言えるのか、宇宙進出に全人類的な同意が得られるか(各論反対であっても総論賛成は欲しい)、といった辺りに難しさを感じています。手遅れかどうかの状況認識を、どこまで揃えられるだろうか?

宇宙進出の企図を分かち合うことは、変わろうとしない人間の愚行をやめさせる、最大の可能性かもしれない。

p.12より。変わろうとしない人間の愚行というのは時節柄、温室効果ガスの排出とか大量生産・大量廃棄より地域紛争/戦争行為が真っ先に想起されますが、こちらも同感。企図を分かち合った結果として愚行が止まるのか、企図を分かち合うことを目的に掲げれば愚行を止めやすくなるのか......はさておおき、グローバル視点かつ惑星単位で自らを相対化できるかがポイントなんだろうなと。

月や火星での居住棟の設計のプレゼンってもうやってるみたいだけど、生きている人だけでなく死んだ人の居場所もデザインする必要があるわけね。

p.64より。これは、ちょっとした気づきがありました。仮に他の天体に移住し、そこで死人が出たところで、お墓なんてものを作る物質的余裕はそこに存在しないだろうなどと安直に考えていましたが......文化的ないし宗教的にそれを良しとしない考え方は当然あり得るし、その天体ならではの弔いの文化様式が固まるまでのあいだ、どこでどう折り合いをつけるか考えないわけにはいかない。

地上わずか四〇〇キロメートルのところに一年滞在しただけで予想以上の変異が起こったのだから、新宇宙空間やよその天体に出て行けば、さらにもっと多くの変異が起こるだろう。

p.103より、人体の遺伝子にまつわるお話。宇宙進出において、人間が個別の(地球とは異なる)環境に適応すべく進化できる可能性を説いてるんですが、なるほどこれは期待が持てるかもしれません。最終的には、今の私たちとは似ても似つかぬ存在にまで進化してしまうかもしれないけれど、それはそれで仕方ない笑

国家だけが宇宙活動の主体だった時代は、すでに終わりかけている。将来、地球のどの国から出た人類集団でも、異星に植民・定住すれば、独立の政治主体として認めるべきだ。そこで国際宇宙法は、宙際宇宙法に進化するのである。

p.144より。「国際」に対して「宙際」という言い回しを本書では使っていて、初耳でした。言われてみればなるほどという感じだけど、全く想像すらできていなかった自分の不勉強を恥じます。いっぽうで、国という枠組みがどんどん機能不全に陥っている気がする昨今、果たしていつまで持ち堪えられるか? という気がしなくもないです。

宇宙での未知なるもの、理解不能な絶対的他者との出会いは、何よりも自分との出会いになるということだ。

p.156より。上記もまた、宇宙開発を進める動機として至極ごもっともなんですが、「オーバービュー効果」みたく何か呼びやすいラベルなり名前が欲しい感じ。

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