穂高小屋番レスキュー日記
著
宮田八郎氏の著書『穂高小屋番レスキュー日記』を読了。山歩きを趣味としてからのことだけど、宮田氏のぼちぼちいこかというBlogの写真と文章に惹き込まれ、いつか穂高を歩いていれば直にお会いし言葉を交わす機会もあるかも......なんて思っていたら、昨年4月に山ではなく海でお亡くなりになってしまって。今でも、奥様が更新を続けてらっしゃる同Blogは読み続けていますが、それはそれとして本書には、宮田氏の残してくださった数々の刺さる言葉が散りばめられていました。
穂高の「穂」は「秀」と同語源で、「穂高」とは「秀でて高い」の意。その存在ははるか人里遠くの神秘の峰として崇められていたのでしょう。
これは初耳。好きな山域であることを自認しながら、名前の由来には興味が向いていませんでした......語源を知って改めて、穂高連峰が好きになりました。
山小屋とは宇宙船みたいなものかもしれない、と感じることはたしかにあります。
この感覚、すごくわかります。特に強く感じるのは、北穂高小屋とか、ああいう本当に山のてっぺん近くに建っていたり、阿曽原温泉小屋のようにおよそ人里離れた&そこに資材を運ぶのが恐ろしく困難に違いない場所の山小屋に泊まるときって、命を守ってもらってる感が半端ないもの。
どこへ行くのもだいたいコースタイムの半分から三分の一ほどが相場で、たとえば穂高岳山荘から前穂、ジャンダルム、北穂へはそれぞれ三〇分以内が当時の目標タイム
ジャンダルムこそ行ったことないけれど、前穂〜奥穂(〜穂高岳山荘)〜北穂を3度縦走した経験からすると、この目標タイムはすごい。いや僕もコースタイムよりかはだいぶ早く歩ける方なんだけど、しかし30分以内ってのはすごいなぁ。
そもそも山に登るという行為は、そこに存在する危険を受容するということなのです。
そう、なんですよね。別のところで誰も山で死のうなんて思っていません。でも、ぼくやあなたが山で命を失うことは起こり得ます。
とも書いてらしたけど。そういう可能性、リスクを受け入れずして山に、自然に近づくことなんてできないはずだから。
山を畏れること。山に謙虚になること。山の経験を積むとは臆病を重ねることでありましょう。
......まさに言い得て妙、至言です。山を歩くあいだ、折に触れて思い出すようにしたいです。