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いのち

仏教者、紀野一義師の著書で買って読んだのは、先日覚え書きした『心が疲れたとき読む本』と、今回覚え書きする『いのち』の2冊だけ、今のところ。

永遠なるものに生かされていることを忘れるところから、「惑」が生じる。惑いつつ行なう行為によって「業」がふかくなる。そして「苦」がさらにふかくなってゆく。

永遠なるものとは何か? については、田坂広志先生がよくおっしゃる「大いなる何か」と同義だと私は解釈したけれど。その前提において、やはり自分が「大いなる何か」に導かれているとの信を抱かない限り、「苦」からは逃れられないのでしょうね。

人間は不完全な者だ。しかし、不完全な者が、少しでも完全な者になりたいと努力しているのを見て、誰がそれを軽蔑できるだろうか。

似たようなことを実はかつて、同僚の結婚パーティーで言ったことがあります。幸せな夫婦なんてきっといないけれど、幸せになろうと努力する過程にこそ夫婦の本質があって、価値があるのだ......みたいな話。今思い出すと本当に酷いことを言ったものだけれど笑、酔った勢いだったから許してほしい(謎

人間は他の生物を押しのけ、殺してゆかなければ生きてゆけない。だから、生きているということ自体が罪を重ねていることだといえる。だから、人間一切、悪人ばかりで、善人などという者は一人もいないのである。

これを言い切ってるのは貴重というか、なかなかありがたいことだなと。他の生き物の命をいただかなくては生きていけない、真実そうですからね。大切なのは、その事実を認めてなお、どう生き抜くか。

心というのは、昔から今まで、どうにもつかみどころのないもので、電子計算機かなにかにかけて、心とはこういうものだと出そうといったってそうはいかない。だから、月に到達することはできても、現代の科学では風邪ひとつ治せない。まだ風邪を治す薬というのはない。夫婦ゲンカというのも治せない。

まだ幼い頃だったかな、風邪薬というのは風邪を治すものではなく、症状を緩和するだけというのを聞き知ったときは、結構な衝撃を受けたものだけれど。科学は万能ではない、少なくとも万能だと思い込むのは危険......というのは、自分のような理系出身の人間は常に、気をつけないといけない。

あんな奴に存在理由なんかあるのかなどと思っても、それはこっちが思うだけで、その人にはその人の存在理由がある。本当にどんないやな奴にでも、ちゃんと存在理由はある。よく考えればわかる。それがわからないのは手前勝手だからである。

それがわからないのは手前勝手、笑っちゃうくらい刺さりますな。広島県知事が、今年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式で行ったあいさつのなかで「自信過剰な指導者」なる言い回しを使っていたけど、そういう指導者にすら、存在理由はあるということなのだな、心理的抵抗感は否めないけれど。

わたしは今、本当は死んだら困るのである。困るのだけれども、今死んだら楽でいいだろうなあと思う気持ちもある。どうしようもなかったらやはり、さよならって行くであろう。

めっちゃわかる......まだ死にたくないという思いと、もう死ねば楽になるのかなという気持ちは、両立可能。ただ最終的には、前者が後者を僅差で上回るというか、打ち勝つのだよね、ありがたいことに。

子は授かりもの、お嫁さんも授かりもの。なかにはとんでもない授かりもののこともあるが、割れ鍋にとじ蓋というから、まあちょうどいいのではあるまいか。

ここは笑うべきところなのか、どうなのか、悩ましい笑。

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