心が疲れたとき読む本
だいぶ前に読んだ『心が疲れたとき読む本』について。以前、田坂先生の『教養を磨く 宇宙論、歴史観から、話術、人間力まで』で読み知った、仏教者の紀野一義師の著書。
どんな悲感があろうと、それを外にこぼすな、流すな、胸の奥深くに抱いていよ、そうすれば、その悲感が、やがておまえの心を醒ましてくれる、そして、悟りに至らしめる、という教え
上記は『法華経』に出てくる「常懐悲感(じょうえひかん)心遂醒悟(しんすいしょうご)」という句を解説したもの。紀野師にとって、これが生涯にわたる信条となった
という。私には生死の境を彷徨う体験、田坂先生がよくおっしゃる戦争ないし大病ないし投獄の体験が幸運にして?無いけれど......いずれの体験とも比べものにならずとも、自身のなかの悲感は大事にしたいと思えました。また上記に似て
どんなに辛いことがあっても、希望を失わず、夢をなくさず、かなしみはいつも胸の深いところに湛えて、生きていかなくてはならない。どこかできっと、見守ってくれている人がある。はるかあなたで見守ってくれている力がある。
ともあり、なんとも励まされる思いがしました。さすが、「心が疲れたとき読む本」だけあります笑。とはいえ、どこかできっと......ってのを信じ続けるには、相応に心を鍛えなければならないとも。だって今や、SNSを介し自身の悲感を世界中に向けて発信し、辛さをアピールしては同情を買ったりすることなど容易いわけですからね。
仏法では「刹那生滅」といい、一刹那一刹那消滅を繰り返している生命体と考える。「一刹那」は七十五分の一秒と計算されている。実に七十五分の一秒の速さで生滅を繰り返している生命体が、この人間というものなのである。
「刹那生滅」も、本書で初めて知った言葉。どこか量子物理学の不確定性原理と似て聞こえて、興味深い。生と滅、2つの状態を行き来しているうち、滅の状態から変化することがなくなれば、その時点をもって死と捉えるわけか。実は常日頃から生死の境を彷徨いながら生きていたのだ、と思えれば気が軽くなるというか愉快だし、「今」を生き切りたいとも強く思える......所詮、その「今」は七十五分の一秒でしかない。
たしかに、人間は、どれだけ苦労したって、どれだけ学問したって、どだい大したことではないのだ。八十年もすればその人間の人生は終わるのだし、死んでしまえば数カ月にして忘れられてしまうのだ。
たとえ一角の人物になれずとも、自分がこの世に生きた何かしらの証を、自分が信ずることのできる程度の永続性をもって残したい......みたいな想いが昔は強かったけれど(こうして個人サイトの更新を今だ細々と続けてはInternet Archiveにアーカイブさせているのだってその証左)、親が老いて自分も老いるほどに、だいぶ薄らいできました。むしろ綺麗サッパリ、デジタルでも物理的にも何も残さず死ねたほうがよほど朗らかであろうな......と思わなくもない今日この頃。
@kazuhitoは、木達一仁の個人サイトです。主に宇宙開発や人力飛行機、Webデザイン全般に興味があります。Apple製品と麺類とコーヒーが好きです。南極には何度でも行きたい。アクセシビリティおじさんとしてのスローガンは「Webアクセシビリティ・ファースト」。