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だから僕たちは、組織を変えていける

だから僕たちは、組織を変えていける ——やる気に満ちた「やさしいチーム」のつくりかた』、なんかすごい小分けに読み進めていたのでえらい時間をかけてしまったけれど、最近になって読了。「僕たち」って言葉遣いには強烈に違和感を覚える年齢ゆえ、自分は対象読者ではなかったかもしれないにせよ、感想としては面白かったです。

社会システム全体に、人間性の回帰の流れがはじまっているのだ。人々が「お金」で動く時代は終わり、より高次の欲求である「幸せ」に向かいはじめた。

実際そうであって欲しいと願うものの、自分が感じるところでは、人々が「お金」で動く時代は終わってなんかいないなあと。「お金」と「幸せ」は同義でないけれど、依然として両者は密結合したままなふうに感じていて、それは私自身の現在の価値観を顧みてもそう。

上司と部下には「発言と沈黙の非対称性」が生まれてしまう。上司は「何でも言える」と感じているが、部下はいろんなことを気遣っている。上司には部下の不安が見えないのだ。

上司と部下の関係に限らず、世の至る所に「発言と沈黙の非対称性」は存在するよなあと改めて思いました。その非対称性をお互いどこまで認識できるか、なおかつ認識したうえで相手に寄り添ったコミュニケーションを取れるかが、問われるなとも。

かつて、アインシュタインは「もし私に、地球を救うために60分の時間が与えられたとしたら、59分を問題の定義に使い、1分を解決策の策定に使うだろう」という名言を残している。

この名言は初耳だったかも。言われてみればアインシュタインぽい。確かに、問題の本質を見誤れば、問題は解消するどころか悪化するかもしれないし、解決に向けたすべては徒労に終わってしまう。なので、まず何が問題なのかをじっくり見極めなければなりませんね。

「言っていることではなく、やっていることがその人の正体」とは、作家である久田恵さんの名言だ。ソーシャルメディアの登場で社会の透明性が一気に増したために、このような言行の不一致は、全ての企業にとって大きなリスクとなっている。

久田恵さんの名言も初耳でしたが、言い得て妙。本気の想いは行動に現れて然るべきだし、行動に現れていない想いはホンモノではないと思うしね。ただ、社会の透明性が増したのは個人的には良いことだと思っていて、敢えて上記の逆を張ると、言行が一致する限りリスクではなくチャンスなわけだから。

自走する組織をつくりたいのであれば、手間と時間がかかっても、丁寧なコミュニケーションを通じて、メンバーが「しよう」「したい」と思える環境をつくることだ。リーダーとは情報と仕事を配る人ではなく、意味と希望を伝える人である。

「しなきゃ」「しなくては」みたいな発想は、操作主義によってもたらされた動機の可能性が高く、つまり内発的ではなく外発的動機なのだと理解。そして「情報と仕事を配る」と「意味と希望を伝える」という表現の対比が、なかなか面白い。情報に対して意味、のところはinformation/intelligenceのほうが自然に思えるけど。

工業社会では「自立するリーダー」が「忠実なプレーヤー」を統制するのが理想の組織だったが、知識社会においてはすべてのメンバーが「自立するリーダー」となり、それを「学習するリーダー」が支援する組織が求められているのだ。

知識社会においてはプレーヤーとリーダーの区別がなくなる......という点は、誰もが都度リーダーシップとフォロワーシップを柔軟に使い分けるべきなのと似て聞こえました。もはや統制したりされたりする関係でもない、という点は現代を操作主義が機能しない社会として解釈するとわかりやすい。

対立する必要はない。なぜなら「成果をあげたい、組織をよくしたい」という思いは共通であり、価値観や方法論が異なるだけだからだ。真正面から対立している点を議論するよりも、パーパスを共有すること。

組織内で対立してる風に映る場面があったら、お互いの共通の利害に目を向けるのが王道と思っていて、それによって真に対立しているかどうかをチェックしたり、あるいは同じ側に立脚していることを確認できると思うのだけど。上記を踏まえるなら、パーパス≒お互いの共通の利害、という解釈ができるかも。

相手が変わるかどうかは問題ではない。自分自身が変わり、最善を尽くすことが大切なのだ。

確かにね。難しいけれど、肝に銘じたい。

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