我関わる、ゆえに我あり
著
今年3月にお亡くなりになった松井孝典先生を偲ぶ思いで、最近買って読んだのが『我関わる、ゆえに我あり』。残念ながら、直にお話を伺った機会はだいぶ昔の講演会の1度きりしかなく、基本的には著書を通じて一方的に尊敬の念を抱いてきたのだけど、思い返せば「人間圏」「分化」「共同幻想」......実にさまざまなキーワードを通じ大切なことを多く学ばせていただいたし、決して小さくない影響を受けてきたっけ。
システムの重要な特徴は、構成要素が互いに関係性を持って相互作用を及ぼしているところにあります。
仕事柄、いわゆる「デザインシステム」について話したり考えたりすることがありますが、やはり関係性とか相互作用って重要ですよねという感想。関係しあい・相互に作用するからこそシステムと呼べるし、そうでなければ逆にシステムとは呼べない(呼ぶ必要がない)。
産業革命以降、化石燃料をはじめとする「地球が地殻という構成要素にストックしてきた物質(資源)」をエネルギー化することで、自らの内部に駆動力を持つことになった文明、いわば「ストック依存型人間圏」は、第二段階の文明です。
駆動力というのが文字通り笑、パワーワードすぎる。しかし難しいものですね......今にして思えば、文明の第二段階への移行は浅はかで愚かとすら思えてしまうけれど、私自身、移行の恩恵に授かって生きながらえているわけで。地球を俯瞰し単一のシステムと捉える発想なんて、移行してる最中には乏しかったろうしなあ。結果、
自らのつくった人間圏というシステムの内部に駆動力を持った結果、人間の欲望の解放に制限がなくなった
というのが何とも恐ろしい。本書ではあまり経済の仕組みには触れられていなかったと思うけど、駆動力の無自覚かつ無制限な利用には少なからず現行の経済も加担していたはずで(もちろん悪い意味で)。地球をシステムとして捉えるには環境、社会、経済を分けずに論じる必要を強く感じます。
空間と時間を手に入れるということは、「富」を手に入れるということにもつながります。地球システムの物質循環を早め、人間圏に流入する資源をふやすことができるからです。
この物質循環の加速というのも個人的にはすごくおそろしく感じていて。何より自分自身が日々、その加速に加担せざるを得ない感覚があるののがまた......何とも言えません。しかし喫緊の環境問題に善処するには、おそらく物質循環の速度を(経済や社会が派手に壊れないよう注意しつつ)徐々に下げることが必須という直感があります。
要素還元主義的な思考では、この問題は解けません。それは、地球がシステムで、構成要素間の複雑な関係性の結果として、その動的な平衡状態が決まるからです。
出たー笑、動的平衡。生物学の権威でいらっしゃる福岡伸一氏によって一躍?メジャーになった言葉ですが、このくだりによって、私の脳内では田坂広志先生の複雑系に関する話と文脈がつながりました。つまり、地球システムはあまりに複雑であるがゆえ生命的な振る舞いを備えており、必然的に動的平衡状態にあるのだと。
インターネット社会に代表されるように、個人を主体とした社会の比重が重くなるということは、人間圏が均質化の方向に向かっているということ
上記の指摘、地味に気にしてはいました。特に情報アクセシビリティを推進する者として、均質化された状態というのは一種の理想でありゴールと映らなくもないけれど、それは果たして人間圏のあるべき姿、ありたい姿なのだろうか?と。均質化された先に揺り戻しが待っているとすれば、それは何によってもたらされるのか?とも。それを突き詰めると、
分化こそ歴史における発展の方向性です。均質化はそれに逆行する方向性といえます。その意味で、現在の人間圏はビッグバン状態にあるともいえます。
本書の前半には物質論的に見れば、地球の歴史とは「分化」であったと言える
ともありますが、現在を出発点として再び分化していくことになるのかしら。現状ではまだ夢物語だけれど人類の宇宙進出、他の天体への移住が進めば、それはそれで必要な分化と言えるかもしれないけれど......どうだろう。生きているうちに、次なる分化の端緒は目撃できるだろうか?
人間圏内部に駆動力を持ったこと、すなわち、地球システムにおける物質・エネルギー循環を早送りし、時間を先食いすることによって豊かさを手にしたことが招いた問題であるならば、そのあり方を問わない限り、問題は解けません。
いやまったくおっしゃる通り。そういう視点をもって環境問題には取り組まないといけない。そしてそれは当然、科学の世界に閉じた話でもなく、経済や社会をも巻き込み包摂した議論が不可避。