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問いの立て方

誰の、何の授業だったか、まったく記憶にないのがアレだけど、いずれにせよ大学院で聞き知って買った『問いの立て方』について。ノウハウ的な、Tips的なものを淡く期待して読み始めたところ、正直に言って肌に合わないことを悟り、途中で読むのを止めていました。が、最近になって思うところがあり、何とか読了。結果、やはり問いの立て方についてはよくわからないままですが......いくつか学びはありました。

本分を自覚した者は、反省し、内省し、学び、他者の声を聞く耳を持つため、自分とこの世の全体的な理解、受諾へと扉が開いているのです。得てして哲人、偉人たちがみな謙虚なのはこの理由によります。本分として生きているのです。

もっぱら謙虚さを失えば学ぶことが困難になるし信頼関係を構築・維持しにくくなるとか思って謙虚でありたいと思ってきたけど、言われてみれば暗に自分なりの本分を欲していたからこそ謙虚さを手に入れたがっていたのかもしれない、と思いました。謙虚になったからといって本分を自覚できるとは限らないけど、そこに自分自身これまで気づくことのなかったコンテキストがありそう。

世界および人生のうちでもっとも不可解な部分——主観や情動やクオリアと呼ばれる質感や感性や運命や幸福や歴史や愛など——を扱わないからこそどの国どの民族にも適用可能な強烈なる浸透力を有する科学は瞬く間に世界を覆い、劇作家・思想家、山崎正和先生の言うところの「世界文明」とも言える地球規模での文明統一にいたるわけです。

科学はこれまで本当に「人生のうちでもっとも不可解な部分」を扱って(もしくは扱おうとして)こなかったのだろうか、というのは少し気になりました。その前提には、上記のくだりの少し前に計測可能なものを切り取ることで誕生し育った科学というフレーズがあると思うのだけど。

過去という現在、未来という現在、が現在にあるだけで過去は記憶として、未来は想像として「今・ここ・私」にあるわけですが、過去、現在、未来というフレームを用いるのは日常的なことです。

上記のくだりの結論にまったく異論はなくて、ただ単に過去は記憶として、未来は想像としてというフレーズが妙に刺さったのね。すごくしっくり来たし、実際そうではあるのだけれど、逆に過去を想像したり、未来を記憶するようなことは、起こり得ないのかなとか。

性質として動的平衡がほんとうのこの世、つまりミクロで見れば変化しているが、マクロで見ればトータルとして変わらないこの世において、なんでもあり得るという態度が学問の構えと思っています。

出たー「動的平衡」。本当にそれ。もうね、すべてが動的平衡に映る病にかかってしまっています。

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