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Re: 「一生、自分は自分」という人は、そんな自分とどう付き合うのか?

山本一郎氏の書いた記事、「一生、自分は自分」という人は、そんな自分とどう付き合うのか? | 文春オンラインを読んでの感想。まずサブタイトルにこの時代「人生のデザイン」なんて、できるのかとありますが、これだけ目まぐるしく社会が変化するようになってしまった以上、中長期的な視点からのデザインは困難というか不可能に近い印象をもっています。なので、時間軸をうんと短く区切っては人生(のデザイン)の見直しなり軌道修正を繰り返すしかない、と思います。我ながら刹那的すぎるとも感じるけど、それが今を生き抜くうえでの処世術の一つには違いない、という気がします。

かように、同じ時代に生きる私たちの9割9分9厘は、何者にもなれず、何事をなすこともなく、ただ平凡に日々を生きて死んでいく運命にあります。よく考えなくても、先週の晩飯に特別な何かを食べたかどうかすら思い出すことができない日常にいるわけですよ。

自分もまず間違いなくその9割9分9厘に漏れず、何者にもなれず、何事をなすこともなく、ただ平凡に日々を生きて死んでいく一人だとは思います。だけれど、別にそれが悲しいとか辛いといった感情はありません。それは先に書いたように、自分の人生観がどちらかというと刹那的になってしまっているから、かもしれません。先週の晩飯に特別な何かを食べたかどうかすら思い出すことができないというのも、まぁ実際そうなんですけど、「で?」っていう。過去に執着したくないし、時間はただひたすら未来に向かって流れて行くだけだから、むしろ積極的に過去は忘れて将来にエネルギーを割いたほうが前向きかつ建設的、ぐらいに思っていて。

理想に近づけよう、100点を目指そうと思えているうちはまだマシで、いや、ひょっとして何を目的にしているのかすらはっきりせんのです。というか、読者の中でご自身の人生はいま目標や目的に向かって驀進中ですと胸を張って言える方ってどれだけいらっしゃるんでしょうか。

理想とか目標、目的というのは、自分の中に少なからずありますけど、人生で難しいなと常々思っているのは、いついかなる理由で終わりを迎えることになるか分からないってこと。なので、時にはそういう理想や目的に向かって日々の努力を積み重ねることに若干の疲れや虚無感を覚えることも(疲れた晩には特に)あります。ただ、不慮の事故や天災に巻き込まれるなどして突然終わりを迎えるのと逆に、そういうのと無縁の日々を送り続け予想外に長生きしてしまう可能性だってある。そう考えると、やはり日々の努力を怠る訳にはいかないわけで、アクセルとブレーキを絶妙に踏み分けつつこれからも生きて行くしかないんだなっていう一種の諦観?に落ち着くのです。

世の中には、何かを達成するモチベーションとして「何かが足りておらず、絶望する」というコンプレックスから入る人が少なくありません。これを見ていると結局は「なりたい自分」はあるけど「そうでない自分」を受け入れていく、その過程そのものが人生、ということなのかなあと感じるのです。

これは自分も同感ですけど、Twitterでつぶやいたように、自分にとって人生が何かの過程そのものと表現するなら、「人生に正解なんてない」という事実を受け入れる過程こそが人生ではないかな、と思っています。子供の頃はぼんやりと正解ないし「正解のようなもの」があると思い込んで生きていた(生かされていた?)気がするけど、歳を重ねるごとにそんなものはどこにも無く、結局のところ個々の選択を後々になって正解にするしかない、といえば聞こえは良いけど要するに正解だったと思い込むのが関の山で。でもそれが不幸せなことかというとそうでも無く、正解の無い方が何かと面白かったり楽しかったりするじゃないですか?

......そんな支離滅裂な自分も、あと数日で山本一郎氏と同じ45歳を迎えます。

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