山なんて嫌いだった
著
テレビを観なくなって久しい自分にとって市毛良枝さんは、名前だけ聞いて顔を思い浮かべることのできる数少ない女優の一人。別に好みだったとかそういうんじゃないけども(多分ね)、柔和な笑顔がなぜか記憶に強くのこっているのですが、アマゾンで登山関係の本を漁っていたとき市毛さんの著書『山なんて嫌いだった』を見つけたときには驚きました。なにせ女優というイメージしかなく山好きだったなんて思いもよらず......でも、運動嫌いだった市毛さんが山好きになったきっかけというのが僕も昨年登った燕岳だったというのに惹かれ、本書を買ってびっくり。実は日本トレッキング協会理事だったりして、かなり本格的に取り組まれていたのですね。基本的には、国内外での山歩きの実体験をもとに綴られたエッセイ集なんだけど、ところどころに人生観のようなものもにじみ出ていて面白かったです。意外と自分の考え方と近いかも?って感じるところもあって、たとえば
山は行くだけで充分楽しい。その過程で、日頃都会では見ることもできないものに遭遇できたら幸せだし、もしそれすらなかったとしても、通常と違う世界に身を置くことで、必ずなにかを感じとることができる。そのことが最高の喜びだった。
というのはすごくよくわかります。山に限らず、旅全般について言えることだけれど、山は特にそう。電波が入らないから、スマホをいじることも無く、必然的に身体中のセンサーが外界に向けられ、そしてそこから普段接することのない景色やら音やら、情報がどっと入ってくる。それはすごく嬉しいことであり、幸福なんですよね。
ここ数年、山に登るようになり、キリマンジャロのような大きな自然と対峙する機会を得て、ますます自分自身をあらためて見つめ直すことが多くなった。人間が生きるってなんだろう。自分自身が自分らしくいるってなんだろう。自分らしい自分ってどんな人間なんだろう。
というくだりも同様。割と不定期に「自分探し」なる言葉にスポットが当てられ、かつWeb上ではどちらかというとネガティブな論調で語られることが多いように感じられる昨今だけれど。自分も山に入ると「自分探し」をしに来たかの錯覚(かどうか自信も無いけど)に襲われます。まぁ日常的に、というのは微妙だけれど、たまーに探すというか確認するぶんには、良い(少なくとも「悪くはない」)ことではないでしょうか。また、
年齢とか肩書きとか、私にとっては年々どうでもよくなっている。やる気と行動力さえあれば、たいていのことは乗り越えられる。それを負け惜しみとしてしかとらえてもらえないこともあって、そんな社会の状況がちょっと悲しい。
というのも同感です。四十の歳を迎えたから、かどうかはわからないけれど。乗り越えられる、ってまず信じ込むことでしか、何事も始まらないですし。そして極めつけ?は「あとがき」に出てくるくだりで、
誰もが見えない障害はもっているし、必ず高齢者になる。大多数をしめる人だけに暮らしいい社会ではなく、少数の人の価値を、そのままに認められる社会は来ないだろうかと切望している。そのためにも、自分のできることを探してやっていきたい。
この誰もが見えない障害はもっている
というフレーズが、Webのアクセシビリティに取り組んでいる自分には凄く刺さりました。山の本のはずなのに、なんで障害者とか高齢者への言及が「あとがき」に登場するかは割愛するけれど......素晴らしい考え方だと思いますし、また市毛さんと畑は違えど自分も実践していきたい。それがいまの自分の存在意義の根底にあると信じて。あ、あと槍ヶ岳には自分も今年、登頂したいですね。いやきっと登ろう。