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風立ちぬ

バルト9にて、昨日の21時上映開始の回で、映画『風立ちぬ』を見ました。ジブリ作品とか宮崎駿監督の熱心なファンというわけではないけれど、零戦の設計者・堀越二郎がモチーフとなれば、見ないわけには行きますまい。当初は息子と二人で週末に行く予定をしていたのですが、Twitterでいただいたアドバイスを踏まえた結果、「まずは」一人で見ることに。もともと前売り券、自分用に一枚しか買ってなかったのもあるけど。

見る前から、実はそれなりに論評には目を通していました。個人的には、主人公の二郎役の声が棒読みぽい?とか、やれ戦闘機の殺戮兵器としての描かれ方が足りないだの、喫煙シーンがどうのこうの、といった部分は気になりませんでしたね。二郎が飛行機設計に情熱を燃やすという軸のブレなさ加減においては痛快な映画だったのですけど(普通の人には二郎が発した「NACA」みたいな専門用語は通じなかったと思います)、飛行機云々より「生」にスポットを当てた、昭和の価値観引きずりまくった(それゆえ自分には刺さりやすかった)恋愛映画という印象が強かったです。そして後半、二郎の妻・菜穂子がおそらく助からないのだろうというのが濃厚になる辺りからラストまでは、見ていて単純に辛かったし動悸が激しくなって苦しかったなぁ。なぜかと言えば、簡単に言ってしまえば真剣に生きているか?夢に向かって忠実であるか?時間を大切にしているか?家族を愛しているか?......そんなことを厳しく問われている(そして自分にはいずれも実践が中途半端という)気がして仕方なかったから。

最終的に二郎は(それと直接的に描かれはしなかったものの)最愛の菜穂子を失ったのでしょう。しかし夢の中で、彼はある種の救いを得る。「生きて」という、菜穂子の言葉によって。それは、彼が飛行機という美しく、そして呪われた夢(「欲望」と表現したらえげつないだろうか?)に真剣かつ忠実に生き、同時に時間を精一杯大切にしながら、彼女を最後まで愛し続けたことの証左。そのいずれか一つでも欠けたり、あるいは不誠実なところがあったならば、救いを得ることなく後悔の沼に生涯ハマったに違いない。所詮、それで得られる救いが男性目線による、男性本位のものと批判される類だったにせよ。

翻って、自分はどうか?自分は彼ほど夢に対し真剣で忠実か。時間を、家族を大切にしているか。そこに思い至ればこそ、救いが得られそうにも無い自分に呆然とし、また絶望し、そこに圧倒的な彼我の差を見出すのです......随分と裕福な家に生まれ、頭脳明晰、成績優秀、飛行機設計者としての優れた技術とセンス、また昭和の日本人らしい優しさと謙虚さを併せ持つうえイケメンという、自分とは似ても似つかぬ二郎に対し、美しくも呪われた夢に取り憑かれたというただ一点のみにおいて、親近感を覚えていただけに。見終わって、率直なところ実に辛い映画でした。帰り道、新宿駅で電車に乗ってもまだ、動悸が収まらなかったぐらいで。人は誰しも呪われた夢の一つや二つ抱えて生きているものだし、この世は二郎のように救いが得られる人間ばかりでもない、とでも信じなければ、やりきれない。

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