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富山県警レスキュー最前線

半額に値段が下がったタイミングで購入した『ヤマケイ文庫 富山県警レスキュー最前線』より。

山に阻まれかろうじて生を残した者、かなわず去った人に接するごとに、自らの生死の境に立つごとに、山の圧倒的な存在にはね返されるごとに、人間の無力さと命のはかなさを思い知らされ、感情の起伏がならされてゆくのだろうか。

山男は、山に登れば登るほど平らになる、その理由の考察なのですが、共感できるなぁと思いました。感情の起伏が減るというより、そもそも大抵のことが些事に思えるようになるというか。その変化は、自然のなかで何が起きても自分で対処しなければならない状況を自らつくるメリットの1つと捉えています。

平成二十六年、五龍岳で死亡事故があったときは、非常に天気が悪いなか、富山の山岳警備隊員が長野側から上がっていって遭難者を担いで下ろしてきた。あれは「担いでなんぼ」「一刻も早く家族の元へ」という富山独特の考え方が反映された事案だった。

そんな事案もあったのですね。どうせ滑落するなら富山側へ、みたいな冗談を別の本で確か読んだ記憶がありますが、まさにそんな感じですね笑。いっぽう、その独特さを是としてよいものか? 富山のみならず、他の警備隊にも共通して然るべきではないか? とも強く感じます。

ショックだったのは、私が背負っているときに負傷者から「ほかの方に代わってもらえますか」と言われたことだ。面と向かってはっきり言われたわけではないが、要は「ほかの人に背負われているときは安心していられるけど、君は不安定だし足元もおぼつかない。怖いから代わってくれ」ということである。

自分が背負われる立場(=遭難者、要救護者)だったとして、果たして「ほかの方に代わってもらえますか」なんてこと、言えるだろうか? 真剣に想像してしまいました。よほど身に危険を感じない限り、言えた言葉ではないとは思うのですけど、背負う側も同じ人間ですから......そういうことも起こり得るのかなと。

行方不明になったまま発見されていない登山者は決して少なくない。黒部峡谷の断崖絶壁につけられた水平歩道を歩いていて落ちたとしたら、同行者や目撃者がいないかぎり、まず発見できない。

まさに、私は下ノ廊下が好きで、毎年のように好んで一人で歩きに行っていますが、落ちればまず見つからないだろうとの思いはあります。もちろん、いざというとき見つけてもらうための努力、ココヘリの携帯だったり、登山計画書の富山県警への提出&家族との共有だったりは、欠かしませんけども。

一流の登山家は、生と死の分岐点に立つとき、つまり「死」に近づくことによって「生」の輝きが増すという。比較するのもおこがましいが、山中でふとしたときに湧き上がる家族や友人の顔、日常生活への感謝と悔恨なども、同様に「生」への傾斜となって表れているのかもしれないと思うことがある。

同じく、比較するのもおこがましいですけど、わかります!私がソロで歩く理由は、一緒に歩く誰かが目の前で遭難にあってほしくない(もっと言えば「死んでほしくない」)という理由が大半だけれど、敢えてより危険な状況に置くことで、自分を鍛えたいという理由もあり。それが究極、山から下りたあとの日常の充実や周囲への感謝に繋がるっていうかな。

思わずはっとした。体がゴムみたいにブヨブヨした感触だったからだ。雪崩に五〇〇メートル以上流されてきて、体中の骨がバラバラになっていたのである。

なんとも生々しい記述ですが、あらゆる関節が外れてしまうと想像すれば、確かに人間もクラゲのようになりますかね......もう1箇所、グロテスクに感じつつも貴重だなと思ってしまった死体の描写が

発見された遺体の頭や胴体は、流れに洗われて一様にツルツルになっていて、ほとんど同じように見えた。顔形も一見しただけでは見分けがつかず、河原の石や岩、流木などとほとんど同化していて、すぐ隣を歩いていても見落としてしまうほどだった。

というくだり。時間が経っていたというのも大きいでしょうけれど、そこまで見分けつかないレベルに朽ちてしまうものなんですね。

若い隊員に引き継いでいくものは、なにも技術的なものだけとはかぎらない。課題は、隊の精神性のようなものを、どのように引き継いでいくかだ。技術は積み重ねていくことで向上していくkが、精神性はそういうわけにはいかない。

あぁ、これもわかります、とてもわかります。大学時代の鳥人間サークルでもそうだし、宇宙業界からWeb業界に転職したときもそうだし、いまの職場でもそう。「精神性のようなもの」と技術力には相関関係があり、技術力を上げることで自ずと「精神性のようなもの」が引きずられる格好で維持・向上されることもあるけど......継承は難しいなあと、思いますね。

最終的に在職を決意させたのは、「遺族への支援や隊の再建は、三度の経験がある高瀬にしかできないことがわからないのか。責任を成し遂げてから退職せよ。悲劇のヒーローのまま逃げるな」と一喝、諭されたからだ。

上記は、確か阿曽原温泉小屋の泉さんからも伺ったことのある丸山氏の殉職事故について、その後を述懐した高瀬氏の言葉ですが。慰留の言葉......のはずですけど、なんとも言えない凄みを感じました。とくに最後の悲劇のヒーローのまま逃げるなって、九死に一生を得た人間に向けた言葉にしては、厳しすぎるように感じます。慰留した側も、相当な覚悟をもって発した台詞なのでしょう。

最後に、誤記ではないかと思ったところが1箇所あって、「平成二十八年ゴールデンウィーク常駐日誌」の中に出てくる新室堂乗越から立山川に向けては、立山「側」に向けて、ではなかろうかと。

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