じぶん時間を生きる TRANSITION
著
2023年10月に買っていたらしい『じぶん時間を生きる TRANSITION』について覚え書き。
本書で僕が考えたいのは、コロナ禍によって、ライフスタイルが変化していった中で、僕たちにどんな内的変化=「トランジション」が起こっていったのか、ということだ。
コロナ禍が(少なくとも表面的には)終息、もとい収束した結果として、コロナ禍より前の行動様式への揺り戻しを少なからず感じる昨今、上記の内的変化について不可逆と主張されているものであっても、実は可逆変化だったりしませんかね。というのを、割と強く感じました。そういう意味では、本書はnot for meだったかも。
やれDXだの何だのと、やたら「トランジション」がもてはやされる風潮には、そもそも食傷気味。なので、著者の主張に迎合したくない傾向が、そもそもあったかもしれません。加えて私の場合、両親や自分自身の老いと否が応でも向き合わざるを得ないタイミングゆえ、内的変化の要因をコロナ禍に求めすぎるのに違和感があって。
大学の教員にはサバティカルといって、10年に一度1年間の休暇を取る制度があるが、ナレッジワーカーにとってはサバティカルのようなゼロリセットの期間は、適切なトランジションを迎える上でとても重要なことだと思う。
サバティカル、という言葉がまず懐かしい。死語ではなかったのね......というのはさておき、仕事量を減らしている今の私はある意味、その適切なトランジションに適した状態にあるとは思っていて。ただそれはコロナ禍とは関係がなく、純粋に年齢的な側面が強い認識。過去のキャリアを振り返り、今後のキャリアを考える節目の時期が、たまたまコロナ禍と被っただけっていうかな。それはさておき
持続可能性が大事になる時代、時間という概念はどのように変わっていくのだろうか。
という問いは、たいへん興味深いと思いました。この少しあとで
近代以降の僕らは、過ぎ去っていく時間を、不可逆な直線的なものとしてとらえている。しかし、近代以前、人々は、時間を円環して繰り返すもの、という感覚でとらえていた。
ともあって......持続可能性を重んじるということは、将来世代への責任を負うってことでもあると思うんだけど、時間を円環的にとらえることが、その種の責任の取り方につながる発想を、今まで持ってこなかったので。果たして本当にそうなのか、は時間をかけてじっくり考えたいし、田坂先生の著書によく出てくる「事物の螺旋的発展の法則」とどう関連するかについても、考えてみたい。