Re: 20年書き続けた日記をやめた理由
著
はてブられていたのがきっかけで読んだ20年書き続けた日記をやめた理由|文月悠光 - りっすん by イーアイデム - りっすん by イーアイデムには、少し考えさせられました。日記とは頻度も様式も違うけど、かれこれ20年以上、この覚え書きの更新を続けてきたので。
次第に友達といる時でさえ、「早く一人になって日記を書きたいなあ」と思うようになった私は完全な「日記中毒」だった。
最近はそうでもないはずだけど、覚え書きを記すこと、何かしら個人的な記録をWeb上にアウトプットすることについては、自分も中毒なのかもしれません。何者でもない自分がこの世界を生きた、ないし生きている証を残したいという謎の欲求。いずれ自分が死んでサイトが閉鎖されても、「今」アウトプットしてさえおけば、勝手にInternet Archiveがアーカイブしてくれて後世の誰か・何かに役立つかもしれない、そんな淡い期待。
「自分はいつでも書くことによって客観的になれる」と過信してしまうと恐ろしい。かつての私がそうだった。
そういう類の恐ろしさ、確かにありますね。自分の場合、Webという誰でもアクセス可能な(あくまでアクセスしようと思えば、だが)場所に覚え書きを公開することで、個々のページ下部にいちおう弁解は記しているものの、内容の正確性や信頼性に配慮した「つもり」になってしまっている可能性が否定できない......自分にとってはその正確性や信頼性への配慮が、客観性と近い認識でいて。
言葉を持つことは結構怖いことでもある。自分の都合のいいように事実を編集できてしまう(できれば自覚的でありたいが、限界もあるだろう)。
なるほど、多様にあり得る解釈とかその価値を、書くという行為、言語化が矮小化してしまうとも言えそう。自分の場合は文章力が無いものだから同じ構成・文脈に割と落ち着きがちで、つまり覚え書きの存在が自身の思考の幅をどんどん狭めるよう機能してしまってはいまいか? と。それに気づいてもなお、上述の「謎の欲求」だったり「淡い期待」のほうが勝ってしまって、覚え書きし続けるだろうけど。
以前は久々に友人と会っても、前回会った日をクラウドメモの日記から検索し、「あ、去年の5月の新宿ぶりだね!」と正確に記憶を呼び起こさなくては気が済まなかった。今は「いつだっけ?」と一緒に思い出す時間が、相手とよりコミュニケーションが取れているようで、なんだかうれしい。他者や世界に対する信頼感が明らかに強くなったと思う。
うーん、考えさせられますね。逆に言うと、現状「他者や世界に対する信頼感」が自分は弱いからこそ、覚え書きし続けているのだろうか。いちいち覚えていられないから、記憶力の弱さを補うための外部ストレージ代わりにアウトプットしたい欲というのも確かにあって、その意味では決して忘れることを自分は恐れてはいないのだけど......もしも、ある日突然、覚え書きはおろかサイト丸ごと消し去って、ついでに参加しているSNS全部からも足を洗ったら、どうなるのだろう。それはそれで、すごくサッパリできそうではあります。