無(最高の状態)
著
大量の科学論文を読み込んで得た知見をベースに書籍を執筆しているらしい鈴木祐氏の『無(最高の状態)』を読みました。確かにエビデンスベースではあるのだろうし、内容に確らしさは感じたものの、しょっちゅう「......の研究によると」みたいなフレーズが登場するのがかえって煩わしく感じられてしまいました。その辺りのバランスも大事だよなあ、とか思いつつ覚え書き。
危険に満ちた原始の世界では役に立った警戒システムが、安全が増した現代ではうまく働くなった
直近の、たかだか数百年の社会的な変化に、人間の肉体や精神が追いつけていない、少なくとも最適化できていないような気がしていたのだけど、本質的には上記にある身の安全に関する環境変化ってのが大きいのかしら。だとしたらこれは実に見事な言語化と言わざるを得ません、私にとっては。
ヒト以外の動物は過去や未来を深く考えず、ほぼ目の前の世界だけを生きています。それゆえに、動物たちは過去の失敗や将来の不安に悩まされずに平常心を保つことができる。
大変興味深いし、「今、ここ」ってやつに集中することの大切さを改めて思い知らされた気がします。「今、ここ」を大切にできないなら、どうしてその集積たる人生を大切にできようか、みたいな。ただまぁ、そこのところの分解能って上げすぎると途端にしんどくなるから、分解能を自在に上げ下げすることで疲れたり緊張しすぎない塩梅を常に模索し続ける必要があるなと。
権外は自分の力ではコントロールできないこと、権内は自分の力でコントロールできることを意味します。
権外とか権内って言葉、初耳でした。そして文脈的には結局のところ座右の銘であるニーバーの祈りに行き着くような印象を受けます。ある事案が権外と権内のいずれに属するかを見極める能力、いや見極めるというか自身の能力に照らして適切に分類する能力って本当に大事だなと。そしてその精度を上げるには、多少は痛い目に遭いながらも経験を積まないといけないんだろうなと。
物語が苦を生むメカニズムを理解した上で、「"わたし"とは生命の維持機能がもたらす明滅である」という感覚を養い続けることです。
なんとも詩的なまとめ。でも確かに「わたし」にこだわればこそ悩んだり苦しむわけで、究極的に「わたし」へのこだわりを捨て去り無我の境地に立てばこそ、もっとラクに生きれそう。そのこだわりの捨て方については多少、加齢とともに身につけることができたような気がします。人生の折り返し地点は明らかに過ぎているのだから、こだわってもしょうがない、みたいな風に。