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川崎殺傷事件について

何はさておき、お亡くなりになった方々のご冥福と、負傷された方々の1日も早い回復をお祈りします。で......いろいろ思うところはあるのだけれど、すごく共感できたというか、自分自身では言語化できなかった考えを見事に文章にされた記事があったので、該当箇所を引用し覚え書きしておきたいと思います。まず、川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(藤田孝典) - 個人 - Yahoo!ニュースから引用:

類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。

この記事が掲載された時点では、亡くなった容疑者の素性は報道されておらず、従い容疑者を凶行に駆り立てた何かが社会の側に存在する可能性も不明だったはず(その点は今日時点でも断定はできない)。それでも上記の内容をいち早く藤田氏が発信されたのは、生活困窮者支援という活動を通じて、日頃から個人と社会の関係を極めて密接なものと捉えていらっしゃったからではないかと察します。

どれほど恵まれた(ように思える)立場にあっても、人はいつ何がきっかけで真逆の立場に立たされるか、わかりません。それこそは人生の難しさであり、誤解を恐れずに言えば醍醐味でもある(苦しみの極致から一転して幸福を手にすることだってあり得る)とも思います。

ただ、人と世の無常さに想いを馳せるとき、自分も将来どんな犯罪に手を染めることになるか......いやもちろん、そうはならないつもりだし、ならない自信だって今はあるけど、先のことは本当にわからない。それこそ、個人の努力ではいかんともしがたい状況にだって陥り得るわけで......そう考えると、最悪の事態を未然に防げる社会であってほしいし、そういう社会に自分は生きたいし、自らそういう社会をデザインしていかなければいけないのだと、思うのです。

そして「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」への反論 - ←ズイショ→から:

自分の家族が殺されてしまった人にそんな殊勝なことを言えとはとても言えない。言えるわけがない。決して無理に言わせたりなんかしてはならない。

しかし、そのような視点を社会が持つことが同じような理不尽が繰り返されないために必要であるならば、それなら代わりに当事者ではない誰かが言うべきだ。

この記事は、先の藤田氏の記事とそれに対する批判を受けて書かれたもので、当事者と非当事者にどうしようもなく分断されるしかないゆえの役割分担の問題という表現もあったのだけど、まさに言い得て妙だなと。自分も今まさに、この記事を非当事者の立場で書いているわけだけれど、同時に簡単に社会は人間は無力だと諦めたくない一人としても書いていて、つまりズイショさんのように考える非当事者が一人でも増えてくれたらいいなと願い、拡散の意図をもって紹介・引用しました。

ぼんやり、個人と社会という2つの距離感が問題なのかなって思うけれど......まとまりませんが、この辺で。まぁ事件当日は自分も子をもつ親の身としてすごくショックを受けたし、それは今なお脳内に微妙な混乱をもたらし続けているから、まとめようがないのです。

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