垂直の記憶
著
少し前にKindle版が値下がりしていたのを機に買って読んだのが、山野井泰史氏の著作『垂直の記憶』。プロ登山家の世界には縁遠い自分ですが、たまの山歩きを趣味の一つにしている関係で、興味は以前からあった書籍です。本書は、まさに「生還」と呼ばずにはいられないご経験を含め、世界各所での登攀の記録をまとめたものですが、一部には同じ時間軸を奥様の視点から記した内容も併記されていたのが興味深かったです。山野井氏に個人的かつ一方的に親近感を抱いたのは、第一章に
月に何度か池袋で行なわれるミーティングに田端のアパートから自転車で通うようになった。
とあって、今の自分と同じく田端にかつて住んでいらした共通点を見つけたのと、第二章では
妙子は、南極でコウテイペンギンを見たいと言っている。実物はどれほど大きく、かわいいのだろうか。いつの日か、二人で訪れてみたいものだ。
とあり、南極を夫婦で訪れたがっているという共通点も見つかったから。もっとも自分は既に二度(独身時代と結婚してから夫婦でと)、観光で南極半島まで足を伸ばしているものの、緯度的に野生のコウテイペンギンは目にするまでには至っておらず、また我が家の場合、嫁さんは遠すぎるという理由でもう行きたくないと言っている違いはありますが。それはそうと
計画が決まると喜びと同時に多くの不安が胸の奥からわき上がってきた。何を準備し、どのようなトレーニングを積み、本当に登り切り、生きて帰れるか疑問でいっぱいだ。しかし、夢がなければ生きていられないし、都会で生活していると落ち着かず、すぐにでも雪と岩と氷の世界へ戻りたくなってしまう。
というのは、程度の差こそあれ、すごく共感できました。山に向かう前の不安、冗談抜きに最悪死ぬかもしれないという不安......そして、そんな不安を覚えるなら行かなければ良いものを、と我ながら思いつつも、そうせずにはいられないほど強く覚える山への憧憬や飢餓感。自分が登ったり歩いたりするような、良く手入れされたルートなどではなく、まったく手つけずに等しい自然(というか「垂直」)に対峙するとなれば、行く前の不安たるやいかほどのものかと。
一般的には「山は逃げない」と言われるが、チャンスは何度も訪れないし、やはり逃げていくものだと思う。だからこそ、年をとったらできない、今しかできないことを、激しく、そして全力で挑戦してきたつもりだ。
自分が低山よりも北アルプスの山々にこだわるのは、確かにそういう、年々落ち続けている体力を踏まえてのことでもあります。にしても、やはり逃げていくもの
という山野井氏の言葉は重たい......来年また来れるかな、でも来年は天気に恵まれないかもしれないし、来年までに事故や病気で身体を壊して来れなくなるかもしれないな、みたいなことはどの山に行っても思うこと。特に同じルートを飽きもせず二度、三度(下ノ廊下に至っては既に5回)と歩くことを好む自分にも、重く感じます。ああ、来年もまた劔に登りたい、下ノ廊下も歩きたい。最後に、本書でもっとも強烈だった箇所を引用:
彼女は、ほとんどまともに歩くことができないほど弱り切っていた。別れるとき、彼女の写真を数枚撮った。もしかしたら生きている妙子を見られるのも最後になるかもしれないと思って......。
一体、世の夫のうちどれだけが、かくも悲痛な思いを抱きながら妻に向けてカメラのシャッターを切ったことがあるだろうか。自分はもちろん、幸いにしてそのような経験はありません。もっとも、人は死から逃れられない以上、どんな写真にも引用したような側面というのはあるのだけれど。にしても、強烈すぎるなと思いました。本当に、お二人とも生還されて何よりでした。