Matrix Revolutions
著
早起きをして六本木ヒルズに向かい、朝食をスタバ(メトロハット/ハリウッドプラザ店)で済ませ、かねてより楽しみにしていた映画・Matrix RevolutionsをVIRGIN CINEMASで鑑賞しました。
いやー、疲れたやら納得がいかないやら……とりあえず映像を楽しむことだけはできたかなという感じ。しかしザイオンに大量のセンチネルが攻め込むシーンにしろ、大金を注ぎ込んだと評判の(ド○ゴンボールばりな)スミスvs.ネオの空中一騎打ちシーンにしても、絵的にやや迫力を欠いていた気がします。そのぶん、さまざまに解釈が可能な余地の多く残るストーリー展開への不満が、自分の中では際立った格好。
ちなみに、予告編ムービーで見た空の色ってのは、単にトリニティとネオの乗ったロゴス号がどす黒い雲よりも高く上昇した際の1シーンであり(彼らにとって本物の「青空」を見たのは生まれて初めてのことであり、さぞ感動したことだろう)、エンディングの方向性とはなんら関係の無いものでした。
結局のところ、本当の意味での「勝ち組」はやはり機械でありプログラム(マトリックス)なのであって、機械による人類の支配自体は続いているのではないか、と思いました。確かにザイオンの住人と機械のあいだの戦闘は終結したかもしれないけれど、しかし圧倒的な攻撃力を備えたセンチネルの大群もマトリックスの世界も消滅したわけではなく、むしろそれらの存続を条件としてザイオンの住人は救われたようなものだと考えます。
なぜなら、ネオが機械と取引をした際、自らがスミスを駆逐する代わりに希望したのは「平和」にこそ違いないけれど、その条件に発電機として既に利用されている人類の「解放」が含まれていたように思えないから。そもそもネオが機械にとって自殺行為(=電源断)となるような条件を提示するはずが無いし、提示したところで取引は成立し得ないわけで。
もっともその意味では、たとえネオと「取引」を成立させた後に裏でザイオンに対する攻撃を継続したとしても、機械の側になんら不利益は無いはずで、その点は謎なんですが。
しかしそう考えてみると、ネオの存在というのは、まるで釈迦の掌の上の孫悟空のようにすら思えてきます。
マトリックスにとって、スミスのような突然変異体たる制御不能プログラムを生み出すことが絶対的に不可避であるとして、その都度ネオのような存在を(オラクルやアーキテクトといったプログラムを通じ)形成しさえすれば、とりあえず機械の側は保身が可能なわけで。ネオはやはりマトリックスの中で「救世主プログラムとして」踊らされていただけって気もします。(実際、アーキテクトの言を信ずるならば劇中のネオは「6人目の」ネオだったはず。)
ところで、ラストで機械にドナドナされたネオはどこに行っちゃったんでしょうね……。eblogさんの「マトリックスレボリューションズ、11の謎」についても、これからいろいろ考えてみることにします。