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9日目(2000/1/3)

朝食を食べて来た。

昨日の午後と比べやや波が小さくなったせいか、それとも薬が効いたせいか、頭痛は取れたし食欲も出たので、朝飯はしっかり食べることができた。朝7時半頃の放送では、午前10時頃に船はAntarctic Circleへ到達する予定だ。とりあえず今日は上陸は無く、ゆえにZodiac Boatに乗る機会も無い。予定されているものといえば午前中の鯨の講義と午後のファッションショーだけだが、前者は(ペンギンのときはまだしも)予備知識が無いうえSusanは話し方が速すぎるし、後者には純粋に興味が無いので両方とも参加するつもりは無い。よって、今日はずっと考えごとか(可能なら)読書に費やすことにする。目の前にインターネットに接続され、かつ日本語を扱えるパソコンがあったら良いのだけれど。

今、掃除のおばさんに部屋を追い出され、図書室に来て打っている。いつもお世話になっているロシア人の叔母さんはすごく笑顔が優しくて好感が持てるなぁ。英語が片言しか通じないのが残念。

日本はどうなっているのだろう。本当にY2Kは大丈夫だったのだろうか。日付が2000年に突入して間もなくはSo Far So Goodだったようだけど、本当の意味での正念場はこれからだろう。銀行や商社が動きだすのは主に4日だ。つまり、こちらの時間で今夜が勝負の時となるだろう。日本に帰ってからの情報収集は大変だろうな。きっと帰国する12日は徹夜になるだろう、時差ボケも手伝って。

さて、今は本を持たずに5mxだけを持って部屋を出て来てしまったので、少しまた思考の整理を試みよう。

自分という人間の今後の生き方、身の振りかたを考えるうえで必要になるのが、これから世の中の趨勢がどのような方向性で推移してゆくか、ということである。20世紀は僕の観点でいえば科学の世紀、或いは成長の世紀であったと思う。人間は科学とその応用ともいうべき技術とを用い、19世紀までに無い程の発展(この「発展」という言葉はもしかしたら適切では無いかも知れない)を遂げた。地球以外の天体(それはもちろん月なのだけれど)に人類が足跡を残したのはそれをよく象徴しているように思う。しかし、と同時に、人々が生活に唯物論的豊かさを求めるあまり、一部の国や地域(それはつまり主に先進国とよばれる国々なのだが)の人々は(科学と技術の)使い方を誤り、自然環境に対し地球的規模での計り知れない改悪を加えた。閑話休題、先進国と言われた(敢えて過去形にしよう)日本に生まれ育ったこの僕が南極を訪れていること自体、あるいは自然に悪影響を及ぼしているともいえよう。話しを元に戻すと兎に角、科学技術により成長の一途を遂げたかにみえた文化(そこにはもちろん科学的な側面のみならず社会的、経済的側面なども含まれる)の背景には思わぬ落とし穴…つまり細心の注意を払い総体的なものの見方を実践しない限り視野狭窄に陥り取り返しのつかない過ちを犯し得る、その重大な事実に気づいたというのが僕にとっての20世紀の認識。

少し寝ていた。

寝に入る前の出来事だが、ついに船はAntarctic Circleに到達した。辺り一面流氷につつまれた中で微速前進を続け、南緯66度33分33秒に到達した。その瞬間警笛が鳴り、船首に集まっていた人々は喜びあった。僕はそのとき操舵室にいて、証拠となる?GPSの表示の撮影なんかをした。

昼食を食べ、またかなり寝ていた。食べては寝る、寝ては食べる、まさに腐った生活。(爆)今、夕方5時半。さて、思考の整理への試行に戻ろう。

科学或いは成長とが20世紀を象徴し、かつそこにある落とし穴の存在に気づきもした人類が、来年に迫った21世紀をどう迎え、かつまたその日々を過ごしていくのか、または過ごすべきかについて。

科学と技術の領域における発展の速度がこれまでよりも落ちるとは考えにくい。確かに、その過程において多面的なものの見方をする努力を払わなければ、人類はこれまでの失敗、たとえば原爆や水爆といった悲劇的兵器の開発過程から何も学んでいないことになるが、しかし余程の経済的破綻が全世界規模で起らぬ限り(その可能性はもちろん実在すると思っている、なぜなら資本主義による自由競争社会はこれまではよく機能してきたかも知れないけれど、それが絶対的なシステムというわけでも無いし、今後もうまく機能し続けるとは決してかぎらない)、科学はより進歩し、かつより優れた技術を生み出し続けるだろう、それも加速度的に。

要は、いかに多面的で総合的なものの見方をもってある特定の事象に接するか、がより重要になってくるだろう。一つの物事について検討したり研究したりする場合、それの類する分野だけに話しを広げるだけでは不十分で、より多くの分野からの視点を持って接する必要があるのではないかということ。

それは、ある場面においては2元論的思考の放棄をも意味する。白か黒か、だけの検討では常に不十分であり、そこに灰色という最適解の存在(しかも白と黒がどういった混合比か、といった問題も含めて)の可能性を常に意識すべき、ということだね。例えば日本の教育過程においてよく理系か文系かといった区分がなされるけれど、それは既にナンセンスであり、当然ながら一方は他方による補完が(程度はともかく)絶対的に必要なわけで、科目的にどちらか一方さえ修めればよいということになれば、先に書いたような視野狭窄の人間が大量生産され続け、かなり悲惨な帰結を得ることになるだろう(それがどれほど悲惨かは想像すらできない)。これは「白か黒か」ではなく「灰色の存在」が必要とされてきているその実例である。

と、ここまで書き進めてきて、21世紀に向けてのキーワードは「多様性」ではないか、ということに気づく。それはあらゆる生物の種が子孫繁栄のために採用する手段なわけだけれど、このままでは人類はあまりにも単一な価値観やものの見方に傾倒するあまり多様性を放棄し、自滅の道を歩みかねないのかもしれない(これは極論だけれど)。例えば科学技術至上主義、例えば資本主義経済至上主義、などなど。あらゆる分野に余りにも単一的な価値観がはびこり過ぎてきているのかも知れない。

こと「朱に交われば赤くなる」ことを善しとしがちな日本の社会で生きていくことを前提にして多様性の実現を考えた場合、それは過去の因習を否定することにもなるわけで、大いなる痛みと苦しみにもつながりかねないわけだけれど、それはいわば「産みの苦しみ」として許容すべきものだろう。最近始まった終身雇用性の崩壊は、単にアメリカ型社会への追随とも捉えられるかも知れないけれど、多様性の実現という意味では歓迎すべき社会現象だ。もちろん、一つの会社や組織に一生を捧げ、奉仕し続けるのもそれはそれで人生における一つの選択肢には違いないけれども、例えばそれを集団の論理や既存の文化的背景を理由に強制して(あるいは「されて」)はならないのだ、決して。

多様性の実現のためには、(それが日本であれほかのどこかの国や地域であれ)個々人がより高次に自我を確立し、他人の自由を侵すことの無いことを前提としつつも極めて「自由な」発想に基づき、あらゆるものごとに対して、ときには疑いの目をもちさえしてまでも、「熟慮する」ことが一つの有効な手段になるだろう。集団の論理に流されることなく個々の人間が個別にそれを実践すれば、それはきっと多様な価値観を受け入れ得る社会的土台の形成へとつながっていくように思う。そして、そういった世界を実現するための第一歩は、あくまでも周囲に頼るのではなしに、僕自身から踏みださなければ。

昔どこかで聞いた好きな言葉に「Think Globally, Act Locally.」というのがある。また、僕が愛して?止まないApple Computer社の広告に「Think Different.」というのがある。これらの非常にシンプルで、しかし含蓄のある英語のフレーズには、僕自身が今年を、そして今後をどう生きていくべきかに関するすべてのエッセンスが盛り込まれているのかも知れない、と感じる今日この頃だ。

支離滅裂な文章ながら、ある程度は思考も整理されてきたように思えるけれど、どうかな。もし上記の文章を読んだ方、なんか意見とか感想とか聞かせてもらえると嬉しいです。(もっといい考え方なり、思考の整理なりをするための参考になると思うから。)なんかあまり南極旅行記っぽくなくなってしまったが、思考の整理も旅の目的にしたっていいし、実際今日はすごく時間があったからそれを試みることができたよ。

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